鶴ヶ城・・・。

弟の還暦旅行2日目は、バスツアーです。会津若松は、会津の中心都市。戊辰戦争で新政府軍の1カ月にも及ぶ猛攻に耐え、難攻不落の名城として知られたとのことです。会津若松はその城下町で、福島県に併合されるまでは若松県が存在しました。

幕末に、会津藩松平容保の近衛兵として編成された白虎隊。藩士の子弟などで16~17歳の十数人は、新政府軍の猛攻に敗走。捕虜になって恥辱を受けることがあれば君主や祖先に申し訳ないと潔く自刃を選びました。

鶴ヶ城はもともとは7層構造でしたが、現在は5層に。平和な時代ですし、いまは核家族化や少子高齢化の時代ですから、少し小さめでよいですね。高齢化対応で、エレベーターやエスカレーターも設置すればよかったのではとも思いました。

最上階からの眺望。名峰磐梯山や市内の街並みが見渡せました。

城内への入り口に当たる太鼓門は、その名の通り太鼓が備え付けられ、その太鼓で様々な情報を伝えたようです。写真の中心にひと際大きな石は、遊女石と名付けられているようで、入り口付近に設置して藩主の力を見せつけます。この石はあまりに大きくてびくともしなかったため、遊女を載せて躍らせたら見事に動いたそうです。

会津の人の根底にあるのが、什の掟だそうです。6番と7番は今の日本では守る人は少ないかもしれませんが、それ以外は納得できるものと感じました。そして、最後の「ならぬことはならぬものです」は、ダメなものはダメで、お互いに約束したことは、絶対に守るという意味だそうです。

什とは、会津藩士の子弟は10歳になると藩校「日進館」に通いましたが、それまでの6歳から9歳の子どもたちを町ごとに10人前後のグループに分けていたそうです。このグループを什と呼んで、会津藩士としての心構えを身に付けさせていたそうです。立派な教育制度だなと感心しました。